kinnketuboy376のブログ

趣味で書いた短編。ゲームのこと。映画のこと。とにかく思いついたことをたまに書く日記のようなもの。

最近、歌丸さんの訃報を聞いた。
この前も誰か亡くなったような気もするけど、
あまり覚えていない。

あたり見なくなったテレビを点けたら、
案の定、追悼やらの特集が組まれていた。

亡くなった人のジャンルは違えど、

同じような内容だ。

 

ふと思った。

 

いろんな死がある。

 

誰かの死。
タレントの死。
アーティストの死。
子供の死。
友達の死。
家族の死。
そして自分の死。

 

その中で、有名人の死について、最近思うことがある。

誰かが死んだら必ずニュースになるのが、この日本だ。日本以外もそうかもしれないけど。
俺が25年余り生きてきた中でも、いろんな死があった。

だが、この有名人の死というのは、何なのだろうか。
その人が生きた証、生きて何をしたか。そんな様子が死んだ後に映される。
いつもは大してフューチャーされないような人間も、もう忘れられたような人も、訃報の時は取り上げられて。

予め用意されていたかのような映像番組、追悼番組を流す。
そんなテレビに俺は違和感を感じずにいられないし、何か言い知れぬ陰謀めいたものさえあるような気さえしてしまうのだ。
そうしてひとしきり取り上げた後は、何事も無かったかのようにいつもの日常を取り上げていく。
そのうち誰かが死んで、その番組を作って。
視聴者にはああ、死んでしまったんだと。

最初はショックかもしれない。

でも次第に弛緩していく感情が、

薄れていく思いがある。
そうしてまた興味のある話題を見つけ、いつもの日常に戻っていくのだ。

 

なんて気味の悪い社会だろうか。
当然といえば、当然だけど。
テレビの中にいる人物は、自分と直接繋がりのない人間だから。
いつまでも偲んでいても、しょうがないから。
もういいよ。とさえ言ってしまう。

 

地震も、大雨も。割れた地面も。洪水の街並みも。数字で映されるたくさんの被害者も。


みんなテレビの中の出来事で。

いつか風化されて、歴史になっていく。

教科書の歴史の中にもきっともっと多くのことがあったんだろう。
俺が半世紀を迎えた時、何が歴史に残るのだろう。

そんなことをふと思った日だった。