邦画「永い言い訳」を観た
自分を愛する人間。あるいは愛してくれていた人間。気分次第な時もある。そんな存在に気づく話。
「愛してくれる人を貶めちゃいけない」
クソ野郎の主人公が、自分が守りたいと感じる人間に触れて、その存在に対して言った言葉。
これが酷く胸に刺さった。
といってもこれはきっと普遍的なものだ。
後ろめたいことがある人だけが感じるものじゃない。
人は慣れる生き物だから。
どんなに強く愛し合っていたとしても、どんなに大切な存在だと感じていたとしても。
いずれそこにいるのが当たり前の存在になってしまう。
家に帰れば、おかえりの声があって。
寝る時は隣にいて。
会いたい時に連絡すれば、必ずあってくれて。
意識しなくても、そんなふうに思ってしまう。
ふと何かの拍子に壊れてしまうかもしれないのに。
何かの拍子に、途切れてしまうかもしれない。
何かの拍子で、変わってしまうかもしれない。
そんな綱渡りのようなバランスで成り立つものを、当たり前に感じてしまう。
主人公は長年連れ添ってきた奥さんを、すっかり冷めてしまった夫婦の関係を亡くしてしまう。
奥さんが亡くなった時、主人公は不倫相手を抱いていた。
奥さんが亡くなったとき、2日1番に気になったのは自分の評価だ。
今まで奥さんを冷たく扱っていたことを自覚していて、後ろめたさがあって、その中で自分が世間でどう思われているのかが気になって仕方ない。
真顔でエゴサーチを続ける主人公の姿の糞っぷりは、不快に思わずにいられないが、これを不快に思うのは重なる部分があるからだ。
大切な人を失った。その人を取り巻く関係性は自分をどう思っているのだろう。
自分は蔑まれているのだろうか。
軽蔑されているのだろうか。
その人に対して後ろめたい部分があればあるほど、その不安感は強くなる。
それらは自分が肯定されていても、消えない。
自分自身が自覚しない悲しみに、気付かない限り、消えない。
この映画を見て、同調したものがある。
一昨年、ある人を亡くしてから、幾年経って。
ある時突然、胸が痛いくらい苦しくなって。
なんだか分からないけど焦っていて。
少し経って焦ったってしょうがないことだと気づいた。
もう取り返しがつかないと気づいた。
葬式でも、一周忌でも。
その人に対して何を語っても、薄っぺらく感じて何も喋れなかった。
何も語ることがなかった。
悲しみと向き合う時間は。悲しみに気づく瞬間は、人それぞれなのかもしれない。