kinnketuboy376のブログ

趣味で書いた短編。ゲームのこと。映画のこと。とにかく思いついたことをたまに書く日記のようなもの。

惨めな気持ち

惨めという気持ち


25から26になる。
世間では一般的にaround 30。いわゆる「アラサー」というやつに踏み入れるそうだ。
歳をまた一つ取るということに、危機感を覚えずにはいられなかった。
周りの関係たちが、人生を1歩ずつ進めていく中、俺だけが停滞しているような感覚が。
どうにも惨めだった。
仕事も。人格も。
全て、誰と比べても。
比べれば、誰にでも劣っている。
真面目に生きることも出来ず。
尖って生きることも出来ない。

目標がほしい。

マンガや映画の主人公みたいに、
変わるきっかけが、ほしい。

待っていてもそれはきっと訪れない。

未だ俺は、守られる立場から抜け出せずにいる。

何かが、何かが。

 

そう思っているうちは、どうにもならないのだろう。

それだけは理解出来た。

邦画「永い言い訳」を観た

自分を愛する人間。あるいは愛してくれていた人間。気分次第な時もある。そんな存在に気づく話。


「愛してくれる人を貶めちゃいけない」


クソ野郎の主人公が、自分が守りたいと感じる人間に触れて、その存在に対して言った言葉。

これが酷く胸に刺さった。

といってもこれはきっと普遍的なものだ。

後ろめたいことがある人だけが感じるものじゃない。

 


人は慣れる生き物だから。

 


どんなに強く愛し合っていたとしても、どんなに大切な存在だと感じていたとしても。

いずれそこにいるのが当たり前の存在になってしまう。

家に帰れば、おかえりの声があって。

寝る時は隣にいて。

会いたい時に連絡すれば、必ずあってくれて。

意識しなくても、そんなふうに思ってしまう。

 


ふと何かの拍子に壊れてしまうかもしれないのに。

何かの拍子に、途切れてしまうかもしれない。

何かの拍子で、変わってしまうかもしれない。

 


そんな綱渡りのようなバランスで成り立つものを、当たり前に感じてしまう。

 


主人公は長年連れ添ってきた奥さんを、すっかり冷めてしまった夫婦の関係を亡くしてしまう。

奥さんが亡くなった時、主人公は不倫相手を抱いていた。

奥さんが亡くなったとき、2日1番に気になったのは自分の評価だ。

今まで奥さんを冷たく扱っていたことを自覚していて、後ろめたさがあって、その中で自分が世間でどう思われているのかが気になって仕方ない。

真顔でエゴサーチを続ける主人公の姿の糞っぷりは、不快に思わずにいられないが、これを不快に思うのは重なる部分があるからだ。

大切な人を失った。その人を取り巻く関係性は自分をどう思っているのだろう。

自分は蔑まれているのだろうか。

軽蔑されているのだろうか。

その人に対して後ろめたい部分があればあるほど、その不安感は強くなる。

それらは自分が肯定されていても、消えない。

自分自身が自覚しない悲しみに、気付かない限り、消えない。

 


この映画を見て、同調したものがある。

 


一昨年、ある人を亡くしてから、幾年経って。

ある時突然、胸が痛いくらい苦しくなって。

なんだか分からないけど焦っていて。

少し経って焦ったってしょうがないことだと気づいた。

もう取り返しがつかないと気づいた。

 


葬式でも、一周忌でも。

その人に対して何を語っても、薄っぺらく感じて何も喋れなかった。

何も語ることがなかった。

 


悲しみと向き合う時間は。悲しみに気づく瞬間は、人それぞれなのかもしれない。

だんだんと

煩わしくなってくる。

 

社会人になると友達と時間が合わなくなる。

ってのは、会おうという時間を作るまでの価値がないからだ。

 

自論だけど。

貴重な休みの日を、数人の予定を合わせて。

「みんな」の時間を作る。

自分の関心が。

全く別のところにあることから、目を背けて。

「みんな」という繋がりを保とうとするのだ。

 

少なくとも俺にとって、大学時代の友人と会うっていうのはそういうことだった。

あの学生の頃の気分を思い出して。

 

現在と剥離した自分を意識させられて。

しょうもないことで笑って。

楽しい気分を崩さないように。

笑顔で帰れるように。

 

そうやって帰りの電車じゃあもう疲れている。

つり革に掴まって。

スマートフォンを弄る。

こうやって愚痴みたいな文を書いている。

 

ああ。

ほんとに。

人が煩わしい。

最近、歌丸さんの訃報を聞いた。
この前も誰か亡くなったような気もするけど、
あまり覚えていない。

あたり見なくなったテレビを点けたら、
案の定、追悼やらの特集が組まれていた。

亡くなった人のジャンルは違えど、

同じような内容だ。

 

ふと思った。

 

いろんな死がある。

 

誰かの死。
タレントの死。
アーティストの死。
子供の死。
友達の死。
家族の死。
そして自分の死。

 

その中で、有名人の死について、最近思うことがある。

誰かが死んだら必ずニュースになるのが、この日本だ。日本以外もそうかもしれないけど。
俺が25年余り生きてきた中でも、いろんな死があった。

だが、この有名人の死というのは、何なのだろうか。
その人が生きた証、生きて何をしたか。そんな様子が死んだ後に映される。
いつもは大してフューチャーされないような人間も、もう忘れられたような人も、訃報の時は取り上げられて。

予め用意されていたかのような映像番組、追悼番組を流す。
そんなテレビに俺は違和感を感じずにいられないし、何か言い知れぬ陰謀めいたものさえあるような気さえしてしまうのだ。
そうしてひとしきり取り上げた後は、何事も無かったかのようにいつもの日常を取り上げていく。
そのうち誰かが死んで、その番組を作って。
視聴者にはああ、死んでしまったんだと。

最初はショックかもしれない。

でも次第に弛緩していく感情が、

薄れていく思いがある。
そうしてまた興味のある話題を見つけ、いつもの日常に戻っていくのだ。

 

なんて気味の悪い社会だろうか。
当然といえば、当然だけど。
テレビの中にいる人物は、自分と直接繋がりのない人間だから。
いつまでも偲んでいても、しょうがないから。
もういいよ。とさえ言ってしまう。

 

地震も、大雨も。割れた地面も。洪水の街並みも。数字で映されるたくさんの被害者も。


みんなテレビの中の出来事で。

いつか風化されて、歴史になっていく。

教科書の歴史の中にもきっともっと多くのことがあったんだろう。
俺が半世紀を迎えた時、何が歴史に残るのだろう。

そんなことをふと思った日だった。